キャンプ場の検索結果
ガロー村、キャンプ場、化女沼パークホテル等の宿泊施設、さらに化女沼神社や竜泉池、姫龍峡そうめん流しなどが設けられた。野外ステージでは1982(昭和57)年にロックバンド・ゴダイゴのコンサートが催されている。
最盛期には年間20万人とも30万人とも言われる人々が訪れたが、バブル崩壊、少子化やレジャー
の男が非現住建造物等放火の疑いで逮捕されている。
岳集落入り口にあった地蔵尊が盗まれる事件があり、そのために災いが起こった、という推測もある。集落では地蔵尊の返却を望んでいる。
アプローチには日向集落から練馬区立秩父青少年キャンプ場方面に向かう。徒歩十分ほどで、道のりも整備されており難しくない。
ランド」(キャンプ場・露天風呂・スパ施設・遊園施設)の一部だった。
宿泊施設「鹿苑荘」、熱帯の鳥が放し飼いにされていた三角屋根のジャングル園(ジャングル風呂)、座敷食堂、宴会場、大広間、ゲームセンター、テニスコート、温水プールなどの設備を備えていた。
2001(平成13)年に屋内施設・遊園施設は
記念館」、キャンプ場などが設置されている。
浅間園展望台は、1967(昭和42)年に火山の博物館を兼ねた展望台として建設された。1993(平成5)年に浅間園火山博物館が現在の新館へと移転したことで旧館は閉館となった。
円筒状の建物と長方形の建物が接続された秘密基地のようなユニークな形状で、閉業後
)のほか、キャンプ場、バーベキュー場、温泉、エテルナ教会(結婚式場)、釣り堀「鬼の宿」などを備えていた。
2005(平成17)年に営業停止、2006(平成18)年に閉館。
同地近くに大滝根山の大越登山口が位置するため登山客を相手とした施設だったが、周辺には山以外に名所や観光地があるわけでなく、山
ゴルフ場・キャンプ場などを備え、炭鉱資料なども展示していた。
2001(平成13)年(2000年とも)に「羽幌緑の村」は閉業。
その後長らく朽ちた状態にあり、ユニークな円形体育館ドームが人気を集めていたが、2018(平成30)年3月、老朽化と積雪の重みにより倒壊した。
2019(令和元)年7月
場所は町営キャンプ場になっている。
現地司令部跡は「ストアーはまゆう」に転用され、キャンプ場周囲に井戸や貯水設備の遺構、他に発電所跡が残されている。弾磨き鍛造所の木造平屋建屋は整備されず崩壊が進んでいるが、2014年時点でかろうじて残っている。正野谷桟橋は2003年12月1日に文部科学省により「旧
には伊吹山キャンプ場も開業した。
1959(昭和34)年1月に「伊吹山観光ホテル」が開業、1963年(昭和38)1月にはその後を継ぐ形で「伊吹山ヒュッテ」が開設される。さらに増改築が加えられ、1968(昭和43)年12月には「伊吹高原ホテル」として開業した。
1989(昭和64)年1月2日には麓
、プール、キャンプ場、養殖池、洋蘭センター、大仏、オートキャンプ場などを備え、入園料は800円だったという。
『静岡県の民宿ガイド』(静岡新聞社、1978年6月)には「仁科川上流大滝の下手地帯に開発されたレクリエーションセンター。宿泊施設もあります。マス釣りは千円で釣り放題」と紹介されている。
ず、その後キャンプ場に転用されたらしい。キャンプ場、ロッジ、食堂、宿泊施設などを備えたが、比較的短期間で閉業となったと言われている。細い林道を登った先に道が迷路のように入り組む施設だった。
開設時期について「バブル期に建設された」と言われているが、1976年時点でも道の造成は行われている。キャンプ
桂川キャンプ場は山梨県大月市の上のキャンプ場。桂川、甲州街道沿いに位置する。
東京に本社を持つ丸正食品が経営していたキャンプ場で、複数のファミリーキャンプ場、「ハニーキャンプ場」と「杉の木ログハウス」、フロントのログハウス、プール、炊事場、タコの滑り台などを備え、規模の大きなキャンプ場だった。
相となっている。一方で朽ちてなおわかる美麗かつ豪奢な建築、息を飲むような美しい眺望は、多くの廃墟ファンを魅了した。
2021年に全天候型オートキャンプ場に転用され、ホテル跡はシェルターとして利用されている。現在は廃墟ではない。
(※参考:『関東自動車株式会社四十年史』(関東自動車、1967年))
知られるようになったが、その後不審火により「ゆう・もあ博物館」は全焼した。
2004(平成16)年頃に建物は解体され、2005(平成17)年時点で、道沿いの看板や、わずかな残留物のみが確認される状態となった。
跡地は長らく空き地のままだったが、2022(令和4)年3月にキャンプ場が開業している。
設置される。1944年には36学級、児童数が2,349人のマンモス校であった。1979年に廃校。校舎はあかさわ山荘として利用されていたが2011年に解体。付近に浮遊選鉱所跡が残るが藪に埋もれておりアクセス困難である。
住宅跡地の一部はもとやま自然の村キャンプ場として使用されていたが閉鎖されている。
公園、八風キャンプ場近くに位置する。
1996年に建築された4層のアーチからなる半ドーム型トラス構造の野外ステージである。骨組みは木製、屋根部分はトタン状の材質で構成されている。
当地で牧場を経営していた諸岡順衛氏が、ゴルフ場建設のために牧場を手放すことになった際、残った土地に動物園を設置するこ
ー、オートキャンプ場、土歩道、大自然食、生涯感動学習などの施設やアトラクションがあった。
園内には「ご所巡り」というコースがあり、高天原遺跡見て歩く「家族連れスクール15分」「小学校スクール50分」「老人会スクール5時間」があった。料金は大人1000円子供500円だった。
2000年頃に閉業、そ
分のオートキャンプ場を中心に、バンガローが5棟あった。バンガローの利用料金は3,500円、トレーラーハウスが一人3,500円、オートサイト2,000円、テントサイト1,000円だった。
閉業時期不詳ながら、2007年8月のブログ記事では駐車車両があり入口も閉鎖されていない一方、2010年6月時点で
朝日川キャンプ場は山梨県都留市にあったキャンプ場。朝日川の渓流沿い、林道猿焼線の道中に位置する。
浮浪者を集め、タコ部屋で違法な労働をさせていた「朝日建設」が運営していたキャンプ場として知られる。
この会社社長らが2000年にキャンプ場で2名を殺害し、1997年に殺害していたもう1名の遺体と一緒
ート・教育キャンプ場・その他の文化施設などが整備され、また発酵槽により炊事用燃料がローカルエネルギーで賄われていた。
オープン当時はまだ一部施設のみが完成した状態で、その後も建設が続けられたという。
1990年頃に、全施設の完成を待つことなく閉業。
渡り廊下が特徴的な管理棟のほか、体育館やスポ
レチック、キャンプ場などを備え、800台収容の駐車場を有する大型総合レジャー施設だった。パーク入口からミニ遊園地まではリフトが通じており、千本桜の並木や花菖蒲園など多くの見どころがあったという。
「交通公社のポケットガイド16 富士山・富士五湖」(日本交通公社、1982年6月改訂5版)ではパーク内
保ハーバルキャンプ場」が開業したが、2020年12月に閉業している。敷地一部は清水エスパルスの三保グランドとして利用され、一部は解体され三保地下海水養殖センターとなり、プールはスイミングスクールに転用されている。また三保会館はほぼ不使用状態のまま残っている。
貴重な遺構として、場内を一周するミニ鉄
同施設内のキャンプ場から伸びているハイキングコースを利用し山を越えれば、「こどもの国」などがあったハーバーエリアに出ることができる。
ハーバーエリアの海側にはマリーナ(やすうら海の駅)やかつて遊覧船が出ていた港がある。この港には2012年放送の大河ドラマ「平清盛」で海戦シーン撮影に使われた宋船のレ
棚山高原キャンプ場(棚山バンガロー村)は愛知県新城市にあったキャンプ施設。棚山高原、宇連山と鳳来寺山を結ぶ東海自然歩道のルート上にあり、登り口から登山道を20分ほど進んだ所に位置する。
数軒の木造平屋建てバンガローから成る施設で、1970年前後の開業と推測される。
放棄された時期ははっきりしない
部がオートキャンプ場として利用されるようになったが、これも程なくして閉鎖された。
2008~2009年頃に「2009年7月にNSP(野呂山スピードパーク)復活」のポスターや噂がSNS上で広がったが、実際には実現されることがなかった。
閉業後に一度アスファルトを剥がされた部分が、後年になって不自然
000年以降に建設された可能性もある。
畑の中にある狭い林道脇に位置し、非常にわかりにくい。清里側からは、国道141号線からスーパートミーズ跡前から左の県道605号クリスタルラインに入り、変則4差路を入って畑の中の農道を走り、隣接する清里中央オートキャンプ場に沿って林道を走ると近づくことができる。
、海の館、キャンプ場等がある一大レジャーゾーンだった。
ひろお水族館はアザラシ保護に積極的に取り組んできたことでも知られている。
1988(昭和63)年の十勝海洋博覧会では大いに賑わったが、1990年代に入ると娯楽の多様化などにより入場者数が低迷。メイン施設のひろお水族館は2005(平成17)年
閉校。
講堂や外倉庫は解体されたが、2022(令和4)年9月時点で2階建て校舎がやや朽ちた状態で現存する。グラウンドは「鞍内キャンプ場」に転用されていたが、現在は使用されていないらしい。なお、県道653号および654号は小脇より先で全面通行止めになっており、この先の力石集落にはアプローチできない。
跡地付近はキャンプ場に転用されているが、このキャンプ場も少なくとも2023年時点で「営業してない」と言及されている。
なお、付近には和知鉱山(京丹波町上粟野、旧・下和知村鐘打脇の谷)もあった。1939(昭和14)年5月に粟村鉱業所大谷鉱山の友山として探鉱に着手、1941(昭和16)年より小規模な稼
ら尾八重川キャンプ場として利用されていたが、施設の老朽化などにともない、2008(平成20)年3月31日に廃止された。
青地に黄色のラインの入った特徴的な木造二階建て校舎が残る。
2008年公開の映画『三十九枚の年賀状』のロケ地となっており、その名残りで壁面に「女性もあげて決戦だ」の文字が右から
市にあった石切り場。不動尻キャンプ場、山神隧道に向かう林道二の足線沿い、鐘ヶ嶽南麓に位置する。
江戸時代から昭和の半ばくらいまで七沢石を切り出していたという。正確には石切場ではなく石の加工場だったらしい。
2019年時点で作業場だったらしい廃屋が残る。
また旧道沿いには大平石切場の石碑がある。
年時点では営業しているが、2011年までに閉業、やや朽ちた状態となっている。 オープンしたが、2011年頃には既に閉業していたという。
少なくとも2013年4月時点でセンターハウスらしい施設などが残っている。
現況不詳だが、施設跡が空中写真で確認できる。併設されているキャンプ場施設は現役らしい。
ュー施設、キャンプ場などがあり、観光船が立ち寄っていた。
「交通公社のエースガイド伊豆・箱根・富士」(日本交通公社、1987年)の河口湖遊園の紹介に「河口湖の中央に浮かぶ鵜ノ島と、島のすぐ前の湖南岸、里宮地区に設けられたプールなどのレジャー施設の総称」とあり、対岸の遊園と一体的な運営だったらしい。
じろそ村キャンプ場は大分県由布市にあったキャンプ場。
1976年時点では所在せず、それ以降の開業である。
夏場だけの営業で、バンガローの他に売店やシャワーがあった。入村料は大人500円で、バンガローは1棟6000円で利用できた。アスレチックや運動広場、テニスコートなども備えていた。
電話帳には
近にあったキャンプ場への通行のために設置されたらしいが、老朽化により使われなくなった。
不使用状態となった時期は不明だが、1990年頃の空中写真では歩道橋南側に開けた土地があり、往来があったものと推測される。2005年頃には既に使用されていない。
「渡った先に何もない不思議な歩道橋」となったせい
号線沿い、キャンプ場「マウンテン・ドーム」近くに位置する。
1908(明治41)年に枌所尋常小学校柏原分教場として開設。1931(昭和6)年に一度廃校になり、1948(昭和23)年に現在地に再建。
1988(昭和63)年に閉校となった。
美しい木造平屋建て校舎が残り、比較的良好な状態で管理され
翌1963(昭和38)年8月31日には小中学校も閉校した。
跡地には植林され、1982(昭和57)年以降はキャンプ場として利用されていたが、そのキャンプ場も不使用状態となっている。
舟打鉱山無縁佛、舟打鉱山友之会碑、神社跡、小祠などの他、コンクリート遺構が見られ、跡地の一部は伐採が行われている。
米軍横田基地のレクリエーション施設「在日米軍多摩サービス補助施設」として使用されるようになり、ゴルフ場やキャンプ場が設置されている。敷地内には旧火薬製造所の遺構が点在している。
米軍施設内のため、通常は立ち入り出来ない。
付近の大丸公園には昭和期に撮影された弾薬庫の写真が案内板に展示されている。
関連施設のキャンプ場があり、小松原大僧正の黒大理石製の記念碑が設置され、「日本唯一」と書かれた石造り十三仏があった。さらに奥には「六角文殊堂」が見られた。
1990年代初頭には不使用となったらしく、2003年発行の『廃墟の歩き方〈2〉潜入篇』(栗原亨)でも取り上げられている。
奥の丘陸地はキャン
ドア施設、キャンプ場。
1986年以降に開業。
少なくとも2009年時点で営業しているが、2017年までに閉業、入り口には「積雪・凍結のためしばらく休業致します」との看板が倒れた状態で残っている。
園内はかなりの急坂で、途中のトイレには「これより先はお車の運転に自信の有るお客様のみ通行可!!」
施設や無料キャンプ場で集客を図ったが、客足が回復せず1985(昭和60)年に廃止された。
索道関連の施設は撤去され、山麓駅(東山温泉駅)も更地となっている。
背炙山スキー場(東山温泉スキー場)は1980年代に営業休止。
錆びついたリフト跡、休憩所跡などは2022年時点でも現存が確認されている。
住者がある。
1986(昭和61)年に閉校した浦山小学校の木造校舎が一部残っていたが、2016年までに解体されている。
現役ののどかな小集落のため、家屋等はすべて管理されているが、集落端に一軒崩れかけた廃屋が見られる。
岳集落に向かうには、ここから練馬区立秩父青少年キャンプ場方面に歩いていく。
覧車や巨大迷路を備え、ポニー牧場やゴルフ練習場、スーパースライダー、キャンプ場、バンガロー等があったという。
施設跡は2014年頃までに解体され、2018年頃に太陽光発電設備が設置されている。
シンボル的存在だった磐洲城天守閣が唯一の遺構として残っていたが、それも2023年6~7月に撤去された。
は運動場・キャンプ場、1993年には温水プール「栗子クアドームDUO」が開設された。
2003年、板谷観光開発が親会社東日本フェリーの倒産とウィンタースポーツ不況の影響を受け10月に倒産、スキー場は元従業員による新会社「栗子観光開発」により営業を継続
2004年、栗子クアドームDUOが廃止され解
67(昭和42)年3月に廃校。
美しい木造平屋建て校舎が残り、閉校後も「村営ふるさと村第1キャンプ場」のバンガローとして活用されていたが、その後閉鎖されたらしい。
敷地内には大正期や昭和期に建てられた石碑が残り、地元の強い要望が叶ってこの地に教育拠点ができたことが大いに喜ばれた様子がうかがえる。
へそ湯」とキャンプ場「伊豆ポマトランド」から成り、15種類のお風呂がある日帰り温泉施設として人気を博していた。
温泉の枯渇により2006年9月頃にへそ湯が閉館、2010年5月頃にポマトランドキャンプ場も閉業したらしい。
2015年時点で敷地内には草木が繁茂しているが、建物は綺麗な状態で管理されて
が、ストリートビューからも確認できる。
隣接する同系列の現役キャンプ場「軽井沢キャンプC」により管理されているらしい。
「北軽井沢シルキーハイランド 絹糸の湯」として仮営業中との情報があったが、2020年7月現在は休業となっているらしい。
ヨーロッパの城のような大変趣のある建物が残されている。
区にあったキャンプ場。バンガローも完備していた。
1976~1988年に開業。
階段状の構造で、一番上にジンギスカンハウス、二段目にバーベキュー広場、三段目にロッジやキャンプ場があった。釣り堀、遊歩道、栗園なども整備されていた。
2003年頃に閉鎖。
2012年頃にはかなり物品が整理されて、
コ・サービスステーションを開設している。
1960年代後半にはモーテルや爬虫類館、新しい動物園などが設置されている。
1971年にガソリンスタンドで火災が発生、これを契機に町は衰退した。交易所、キャンプ場、古いコテージ、動物園、焼失したガソリンスタンドなど、多くの建造物跡が廃墟として残っている。
崖松キャンプ場は新潟県新潟市(旧・岩室村)のキャンプ場。
旧岩室村の広報誌「広報いわむろ第400号」(平成7年8月)の年表では「昭和54年8月に完成」とあるが、「広報いわむろ第199号」(昭和53年11月)には「オープン間もないキャンプ場」としてが紹介されている。両者に相違があるが、少なくとも19
態で、玄関の郵便受けには「日本○資源開発(株)」とある。同名の企業は複数あるが、元々同じ大川地区の別の場所にあってキャンプ場などを運営、その後品川区に住所を移した会社のものだったらしい。なおこのキャンプ場は同じ経営者によるらしい別会社によって2019年からは新たにオートキャンプ場として営業している。