池田牧場は岡山県和気郡和気町にあった牧場。 山中に同じ長方形の建物が無数に並んでいることから「謎....

池田牧場

池田牧場 概要・歴史

池田牧場は岡山県和気郡和気町にあった牧場。 山中に同じ長方形の建物が無数に並んでいることから「謎....

池田牧場 画像

池田牧場入口(2023年10月)
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池田牧場 関連ブログ・参考リンク

http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s2608/tks02.htm
ホーム>岡山畜産便り>復刻版 岡山畜産便り昭和26年8月号 > 順宮さま御婚約成立 池田隆政氏の御目出度順宮さま御婚約成立池田隆政氏の御目出度お喜びの順宮様鶏に餌を与える池田氏 第四皇女,順宮厚子内親王さま(20)の御縁談についてはかねがね両陛下ならびに貞明皇后さまも御生前から心配されていたが,今春来内々に話をすすめていた元岡山藩主,池田宣政氏長男,池田隆政氏(24)との間に去る7月10日御内約が成立した。御婚儀は松平康昌氏が仲人となって明年貞明皇后の御喪明け後に行われるもようであるが,日時については未定である。 順宮さまと御婚約になった池田隆政氏は旧岡山藩主,池田侯の孫に当る池田家の相続者で,昭和22年学習院高等科卒業,習23年12月から現在の岡山市上伊福別所,元岡山種畜場跡に池田牧場を経営され,乳牛,豚,山羊,鶏小鳥などの飼育をはじめられ,昨年夏から秋にかけてはアメリカにカナリヤを輸出された。 池田牧場は家畜の改良増殖に力をそそがれ,今後が期待されていたが,この度の順宮さまとの御婚約成立により,より一層,岡山畜産を力づけられた感がある。去る7月17日御祝いのため同牧場を訪ねると,某新聞社のカメラに心よく御写りになっている処だった。毎日のフラッシュには本人より家畜の方があわてているらしかった。 世が世であれば池田輝政侯16代目の備前藩主は白の開襟シャツで,各家畜舎で家畜と一緒にカメラに向われた。気軽に応対される池田氏に婚約成立の感想など質問につぎのように答えられた。 縁談の話の始りは本春からで,仲に立って御世話されたのが松平康昌氏である。順宮様は学習院時代隆政氏より4,5級下だったので面識があったが,話合ったのは本年5月2日順宮さまが中,四国見学旅行のさい来岡されたおり岡山市後楽園荒手茶寮で隆政氏があいさつに行かれたおりが初めてだそうである。その後6月末東京でゆっくりお会いされている。 今後も引続き岡山県畜産発展のため家畜の改良増殖に努力して,畜産県岡山を全国に知って頂くつもりで居る。住居については,あれこれと,うわさされているが,今後も牧場経営をして行く上からも,牧場内か又はその附近に新築する予定である。」と語られた。御二人の略歴 順宮さま 昭和6年3月7日第四皇女として御誕生,本年20才。現在学習院女子部の短期大学に御在学中で明春卒業される。 池田隆政氏 大正15年10月21日生まれ,24才。昭和23年学習院高等科卒,同年12月以来岡山市上伊福別所,元岡山種畜場跡で「池田牧場」を経営,現在に至る。 池田家 源経基の後えい入道勝入斎が織,豊二氏に仕えて家を興し,その子輝政が家康の娘を妻として関ヶ原の戦後姫路の城主となった。その孫光政が備前の岡山(31万5千石)に封ぜられ,明治にいたって侯爵となった名家である。当主宣政氏(47)は元貴族院議員で欧米各国を歴遊したこともあり,富貴子夫人は元男爵津軽承靖氏の姉にあたる。(多田記)
http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/s271112/tks02.htm
ホーム>岡山畜産便り > 復刻版 岡山畜産便り昭和27年11・12月号 > 池田夫妻さいわいの住む牧場へ池田夫妻さいわいの住む牧場へ畜産岡山の誇 去る10月10日結婚された池田隆政氏と厚子夫人が,お国入りの16日は前日の雨がカラリと上ってあたかも新夫妻の将来を祝福するかのような秋日和,新夫妻歓迎のための1ヵ月ばかり前から地下道フォーム出口,構内建物など塗りかえ修繕をして明粧なった岡山駅下り1番ホームに三木岡山県知事,蜂谷同議会議長,横山岡山市長など歓迎の在岡官民代表約60名が待つうち新夫妻の一行を乗せた下り急行「筑紫」は午前11時14分岡山駅にすべり込んだ。 駅頭から出口前,駅前広場,電車通りは押しかけた人,人で埋めつくされ,一行の車はこの約1万人の人波の熱狂的な歓呼と祝福の嵐のなかに包まれてしまった。夫妻はやっと車上の人となったが押しあい,へしあいモミクチャの人波で100m余の市電乗場まで行くのに30分あまりの時間を食うという熱狂的歓迎ぶりであった。ここから柳川交叉点までの沿道もザット2万人の人波,お国入りのこの日夫妻全くモミクチャにされた形だった。 柳川交叉点から南方――新居の間も先生に連れられた小学生,女学生,一般歓迎者がギッシリならびこれに応えながら車は予定より1時間おくれて午後零時22分新居へようやく到着した。 牧場事務所横で車からおりられた池田夫妻は「おめでとう。まあ!きれい!」の歓迎の声をうけられながら新居へ入られた。小憩の後応接間で夫妻おそろいで記者団の注文に心よくポーズをとられ写真のフラッシュをにこやかにお受けになり,引続いて新居の庭で牧場到着の御感想を記者団にのべられた。午後3時から記者団の注文に応じてポーズをとられ写真におそろいで御入りになった。かくして御国入りの1日は暮れて行った。 17日は厚子夫人はいささかお疲れがでて記者会見も取りやめになり18日の祝賀会も延期されたが,数日にして全快された。すっかり元気になられた厚子夫人を中心に夕食に団らんのひと時を過されていた20日午後7時ごろの岡山市京山山麓の池田邸は時ならぬ提灯行列に囲まれた。この夜同所尾針神社の秋祭りに岡山市内22町の老人,子供達約2千名が提灯を手に歓迎祝福に集まったもので食事を中止され隆政氏とともにテラスまで出られて,手にした提灯を高くあげて行列に答えられた。 21日は三井造船玉野造船所のデンマーク国メルスク・ライン社のオイルタンカーの進水式に,22日は朝県からの乳牛贈呈に,市内3ヵ所の祝賀式にそれぞれのぞまれた。御国入りされた池田夫妻県からお祝いに乳牛1頭を贈る 順宮様と池田隆政氏の御結婚をお祝いして県から乳牛を1頭贈呈することになり去る10月7日畜産課藏知係長が静岡県へ購買のため出張中であったが,田方郡函南村丹那で優秀な仔牛を発見購買した。この牛は静岡県が基礎牛として残していたもので母牛は全国乳牛共進会の3等賞2席で高等登録牛であり,乳量1日最高2斗6升,体格審査で80点をもっており,父牛は名誉高等登録牛で娘牛中40数頭の高等登録牛を出している第六S・N・S・ドン・オームスビー・ピーターチエ号である。両祖父は有名なキングベッシー,ドン・オームスビー号であるので,ダブルクロスになっているので面白い成績が得られるものと考えられている。 この仔牛は昭和26年10月6日生れで,チュンキー・レークサイド・ドン・ポールホルム号といい10月15日朝岡山駅に到着,直ちに岡山種畜場で飼養されていたが去る10月22日午前9時半,三木県知事,蜂谷県議会議長,惣津畜産課長らの手によって池田氏夫妻に贈られた。県から贈られた仔牛農林大臣からお祝の鶏を贈る 順宮さまと池田隆政氏の御結婚を祝って,農相から去る9月26日午後,農林省兵庫種畜牧場産の単冠白色レグホーン12羽(オス2羽,メス10羽)が大臣代理の田内同種畜牧場長から目録とともに池田牧場へ送られた。この鶏は本年3月兵庫種畜牧場で孵化し育てられたもので優秀な血統のものである。農相から贈られた鶏
http://okayama.lin.gr.jp/tosyo/history/2-4-2-14.htm
>既刊の紹介>岡山県畜産史第2編 各論第4章 養鶏の発達第2節 養鶏の展開1.採卵養鶏の発展(4)昭和戦後期における採卵養鶏  1 飼養羽数等の概要 戦後の一時期,経済界のインフレによって,鶏卵の価格は高騰し飼育熱を高めたが,飼料の入手難,戦災地における建築資材の不足,物価の高騰,さらに農村においては鶏舎が疎開者の住居となっているという状態などにより家庭的な小羽数副業養鶏が普及した。 農家が5~6羽飼うことは,自家の食用に供した残りをためておいて,棒手振りと称する鶏卵の仲買人に売って,小遣い銭を取るという程度であるが,飼料を自給し鶏糞を肥料として利用するには,30羽程度が副業養鶏として適した羽数であって,収益も大きいとして一般に普及していた。しかし,このころは濃厚飼料の入手が困難で,種欄を出荷する者に配給される程度であった。 昭和21年(1946)10月には,養鶏復興の機運が盛り上がってきて,岡山県など1道9県連合主催による全国養鶏大会が開催され,養鶏復興対策が決議された。 戦後税制の新しい所産として登場した畜産課税は,畜産の復興に大きな衝撃を与えた。ことに,その創定当初養鶏についての所得の標準は,過大評価されており,さらに地方事業税の付加の対象とされたので,二重あるいは三重にも,その税負担が重くなるという結果となり,24年度には,このため飼養羽数を減らすか,全くやめめものさえ現われた(昭和23年の46万4,222羽が昭和24年には44万5,462羽と対前年比95パーセントに減少)。 所得標準の算定に当って税務当局は,①農家養鶏の場合は,飼料費の20~30パーセントは自給飼料でまかなうものとして所要経費としては認めない。②自家で生産した鶏糞・鶏卵を,自家用として消費しても所得から控除することを認めないとし,さらに,36年度から4羽以上の飼育は税の対象とする,という方針をとった。これに対して,小羽数養鶏を課税対象から除外することと,税額算定の適正化を,他の畜産とともに運動し,成果を納めた。 昭和23年(1948)5月,岡山県では「岡山県農業計画委員会」を設け,同年12月まで種々討議を...活用の革命養鶏」として『鶏の研究』誌に同社主日比野兼男が掲載するにおよんで,当時の卵価安,飼料高の養鶏事情ともからんで,にわかに養鶏界の注目をあびた。この雑草を細切し,すりつぶすために多種類のチョッパーが製造販売され,本県でも井原市山下次郎は,山下式雑草粉砕機を製品化した。しかし,この雑草養鶏のブームも冬期の雑草確保,雑草の処理労力などの問題から,マスコミが大きく取り上げたわりには早く衰退して行った。  鶏ふん処理技術の変遷 養鶏産業の発達,なかでも農家の副業としての養鶏では,鶏ふんの肥料的価値が高く評価されていた。この状態は,昭和30年代半ばまでの農家養鶏全盛時代まで続いたが,その後鶏ふんの価値観も変化して行った。すなわち,養鶏規模の拡大に伴い,その量は極めて多くなり,乾燥処理がこれに追いつかない状態となったためである。昭和30年(1950)ごろの鶏ふんの価格は5貫目俵入りで80~100円程度であって,採卵養鶏の収入として鶏卵・廃鶏とならんで鶏ふんは相対的に,大きな収入源であった。ちなみに,当時のバタリー養鶏で鶏ふんを上手に乾燥処理して販売すれば,成鶏1羽当たり80円前後の収入があり,おおよそ,この鶏ふん収入で更新用の初生雛購入代金が賄えるというのが,精密養鶏農家の常識とされていた。当時の鶏ふん処理は,筵干し,棚干しの2つの方法があり,当時,かなりの規模の養鶏場では棚干しが一般に行われていた。鶏ふんの火力乾燥機械が県内で使われ始めたのは,昭和40年(1965)ごろであろう。燃料は重油を使用したが,当初は脱臭装置はなかったので,乾燥機の使用時はかなり悪臭がただよった。このころから畜産公害問題が発生し始め,岡山行政監察局を通じての苦情申し出第1号が,浅口郡金光町であった。原因は鶏ふん焼却に伴う悪臭であった。ついで山陽町,和気町,井原市など県下全域に,しだいに広がって行った。鶏ふん焼却炉が市販されたのは,乾燥機よりややおくれてであった。焼却炉は養鶏家の手製によるもので,コンクリートブロックを四面積み上げ,底にロストルを置いたもので,自然式のものである。焼却炉は煙,悪臭などによる公害もあり,あまり多くは普及しなかった。昭和48年(1973)のオイルショック以後の燃料の高騰で,火力乾燥も衰退し,発酵処理やビニールハウスによる天日乾燥へと移行するものが多くなった。
http://okayama.lin.gr.jp/tikusandayori/9802/tks03.htm
ホーム>岡山畜産便り > 岡山畜産便り1998年2月号 > 養鶏の時代〔特集〕養 鶏 の 時 代岡山県農林部家畜課肉畜養鶏係 本県における採卵養鶏の歴史をみると明治時代は副業養鶏が主流で,庭先で2~3羽を飼い,10日程度蓄えて販売していた。副業といっても当時の米価が1㎏あたり2銭程度のとき,鶏卵1㎏が約20銭だったので結構な現金収入になっていた。その後養鶏の奨励を積極的に行った結果,大正になると京阪神に向けて年間500トンの出荷体制が整うようになった。しかし,副業の域は脱せず57,831戸のうち専業はわずかに61戸であった。昭和初期には,米,麦,い草,養蚕に続く本県でも重要な産業に成長していった。戦後,庭先養鶏が普及し,昭和28年には飼養羽数130万羽となり,粗生産額で全国第4位となっているが,飼養羽数は1戸当たりまだ10羽程度であった。それまで安定的に発展していた養鶏も昭和40年後半には全国的な生産過剰のため,卵価が長期間にわたって低迷し,経営が悪化する養鶏農家が続出したことから,鶏卵需給調整が必要となり,昭和49年5月において成鶏めす3千羽以上の生産者の飼養羽数を凍結するに至り,以後,鶏卵需給調整が継続している。(1) 全国に誇れる岡山の採卵養鶏その1  大正以降,県南部の鶏卵は,備中玉として阪神方面では高品質鶏卵としての銘柄を確立しており,現在も大消費地と太いパイプで結ばれ,全国有数の養鶏県となっている。その2 昭和36年に全国に先駆けて池田牧場が外国種鶏を導入した。以後,全国的に外国種鶏がシェアを伸ばし,現在90%以上になっている。その3 昭和39年に全国で初めて「鶏卵価格安定共助制度」を岡山県経済連が発足させた。これを契機に全国的な卵価安定基金が創設されることになった。その4 本県の雌雄鑑別師は高度な技術を持ち,全国競技会では上位入賞を続けていた。(記録:100羽を3分30秒足らずで鑑別し,鑑別率100%の記録がある)(2) 鶏卵の生産 岡山県の採卵鶏飼養羽数は,平成9年6,024千羽で全国第6位で代表的な養鶏県といえる。飼養戸数は,200戸で...ったそうだ。さて,高水準で堅調な伸びを示している日本の消費は,すでに飽和状態にあり今後の伸びはあまり期待できず,いかにして消費を維持するかにかかっている。もし,イギリスのようなマスコミ主導型のサルモネラ問題等に直面すれば,確実に消費が減退することは間違いない。そのような事態を招く前に,生産者には何ができるか,流通業者は何ができるか,消費者は何ができるかを考えなければならない。(4) 最近の話題 昨年8月以降,厚生省が進めている鶏卵の消費期限表示については,今年の4月以降,夏期の食中毒が多発する前に法改正に向かうと聞いているが,流通形態にある程度の変化がでてくると予想される。厚生省の諮問機関である食品衛生調査会食中毒部会が提案した期限表示に関する内容は,殻付き卵を加熱加工用と生食用の2つに分けて流通させようというものである。期限表示を行った場合,消費者は安心して新鮮な卵を購入することができ,消費者の自己責任において自らの健康を守ってもらうことができる。今回の期限表示で量販店は,新鮮な鶏卵を常備し,日付の古い鶏卵の在庫を少なくするため今までのような大量出荷ではなく,こまめな多頻度入荷に切り替えると考えられている。また,特売日には,大量な卵を注文するということになり,生産者または流通業者がこれに対応できるのかという問題になる。現在,生産者及び流通業者は期限表示に対応した流通を検討中で何らかのよい結果がでる予定と聞いている。 生産段階での衛生対策は,HACCPが話題になっており,はたして,鶏卵の生産現場で宇宙食を作るわけでもないのにHACCPの導入が必要なのかという意見もある。しかし,万が一いや億が一,鶏卵が原因の食中毒が発生した場合,鶏舎の消毒はどのようにしていたのか,ワクチンはいつ接種していたのか,ベルコンの消毒はしていたのか,という細かい調査に対して的確かつ明解な回答ができるだろうか。量販店からの信頼を失わず,継続した経営を続けるためにもHACCPとはいかなくても,HACCP方式による生産体制は構築すべきではないかと考える。HACCP方式は,まず衛生対策の効果確認とその記録から始まる。一度効果を確認したら,方式を変えない限り頻繁に確認しなくてもよいという合理的な考え方がHACCP方式ある。みなさんの経営を発展させるためにも是非検討をお願いしたいと思います。