余呉町尾羽梨(よごちょうおばなし)は滋賀県長浜市北部(旧・伊香郡余呉町)にあった廃村集落。高時川...

余呉町尾羽梨

余呉町尾羽梨 概要・歴史

余呉町尾羽梨(よごちょうおばなし)は滋賀県長浜市北部(旧・伊香郡余呉町)にあった廃村集落。高時川...

余呉町尾羽梨 画像

1970年代の尾羽梨
©国土地理院

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余呉町尾羽梨 ストリートビュー・空中写真

余呉町尾羽梨 関連ブログ・参考リンク

http://tamanihitokoto.blog87.fc2.com/blog-entry-193.html
本サイトの写真帳コーナーの「ふるさと針川」は現在諸事情で公開を控えているが、その時にお話をうかがった『針川』出身の中谷幸子さん、そして幸子さんを紹介いただいた越川登代子さんとは、その後も話をうかがったり廃村にお住まいだった方を紹介 この肥田先生は、余呉町の丹生小学の学校長を最後に教職を退職され、その後も湖北野鳥センター所長として、また観光ボランタリーガイドや読み語りボランティア、そして本の出版等々多岐にわたってご活躍されている方である。3時間以上のお話の中 
http://kirihosi.seesaa.net/article/194456690.html
集落跡も多々見られます。 DSCN8117.JPG また、ゆるいゲートがあります。 この周辺には丹生ダム建設により廃村になった集落が6ヶ所あり、 DSCN8118.JPG 今もなお当時の住人が来られる様にあえてゆるいようです。 ぼくの他にも探索し 
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/25.Shiga/Yogo_Obanashi.html
      ◆尾羽梨(おばなし)※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「敦賀」(昭和26.9)を使用したものである所在:長浜市余呉町尾羽梨(よごちょう―)地形図:中河内/敦賀形態:川の合流部に家屋が集まる離村の背景:移転事業標高:約300m訪問:2011年6月  町の北部、高時(たかとき)川上流左岸にある。高時川と尾羽梨川の合流部。 集落内では道沿いに石垣が見られ、日吉神社の跡地を確認。ほかコンクリートブロックを積んだ何かの遺構もあったが、集落との関連は不明。 町誌によると、村(当時)による移転事業により集団移転したという。昭和46年、既に針川や奥川並の住民が移住している公営住宅にさらに16戸を増設したが、これに移転した家はごく僅かにとどまっている。同年12月1日移転完了。離村時の各戸の状況は以下のとおり。 姓人数移転先1朝見2町内中之郷(なかのごう)(町営住宅)2垣畑〃〃3久保6中之郷(個人住宅)4〃5高月町【現・長浜市】5澤戸3町内東野(ひがしの)(村造成地)6宮川2大阪府7藤本2長浜市8朝見5東野(村造成地)9宮本3虎姫町【現・長浜市】10宮川5東野(村造成地) 氏神の日吉神社は、坂本(※)の日吉神社に合祀。寺院は売却。 HEYANEKO氏の調査によると、集落には丹生小学校尾羽梨分校があり、昭和47年閉校。 なお大字尾羽梨は近世の伊香郡尾羽梨村。明治22年丹生(にう)村(のち余呉村→余呉町)の大字となる。明治13年12戸55人。かつては製炭業が中心。寺院は浄土宗福寿寺(「角川」より)。※ 詳細は不明 写真1 地名表示写真2 道沿いの石垣写真3 神社の石柱写真4 遺構写真5 農地跡
http://e-kon.sakura.ne.jp/haison_all/bc_harikawa/hai_bc_harikawa.html
針川・尾羽梨針川、尾羽梨(滋賀県伊香郡余呉町)昭和45年、46年離村厳しい冬を前に人が去り 消えてゆく村の灯次の冬もあとを追い またひとつ灯りが消えてゆく光が見えない村 灯りのともらない村に希望の灯りは もうともらない故郷の感傷にひたる余裕があるならば故郷を捨てるなど するはずもないただ一つの「ふるさと」 我が故郷だから忘れぬ 我が故郷「ふるさと丹生小学校のあゆみ」より明治時代の『針川』。鮮明でないのでよくわからないが、集落の雰囲気、そして茅葺き家屋や橋などがわかる。手前に流れると高時川に至る。2005年11月撮影廃村後40年近くすぎようとしている『針川』。川に沿って詰まれた石垣は今でも残り、人々の生活があったことを物語る。滋賀県伊香郡余呉町。昭和29年に余呉村、片岡村、丹生村の三村が合併して生まれた(新)余呉村が昭和46年に町となり現在に至っている。その旧丹生村の最奥の集落として『針川』と『尾羽梨』は位置していた。今でこそ狭いながらも舗装路が『針川』を抜けて『半明』、そして北の『中河内』まで着いているが、それも廃村となってからのこと。廃村時はまだ舗装もされておらず、さらに道は『針川』で行き止まりで、そこから北へは細い山道しかなかったのである。今のように『中河内』~『半明』~『針川』という北からのルートは、徒歩限定という状態だったのだ。加えて電気が通ったのが昭和36年というから、廃村となるわずか9年前に、やっとこの地はランプ生活から抜け出せたという状態だった。それだけでも、如何に辺鄙な地にこの集落が位置していたかがご理解いただけるのではないか。そういう集落であるから、もちろん医者などいない。出産なども全て自宅で自らの手で行なう。冬場は豪雪のため車は使えず、病人が出れば戸板で担架を作り、村中の男たちが総出で道を踏み固め病人を運ぶ。村中といっても小集落ゆえ、成人男性の人数はしれている。その困難さは現在の我々の生活からは、決して想像できるものではないだろう。集団移転時の戸数は『針川』が14戸で世帯員数が72人、『尾羽梨』が10戸、35人だった。「...村が近づけば近づく程、強くなっていくのかもしれない。しかし選択肢は他にはもうない。こんな厳しい辺鄙な地に生活することなどできない時代となったのだ。 人が去れば子どもも減る。学校も閉鎖される。教育のできない所に子どもを置いておくことなどできない。子どもを持つ親は子どもをつれて山を下りる。そして最終的に残るのは高齢者だけ。高齢者だけとなった村を、また冬になると当たり前のように豪雪が襲う。厳しい自然は容赦ない。その自然の厳しさに耐える力はもう残されてはいない。そして高齢者もやがてはその地を去らざるを得なくなる。そこで生まれ、そこで育ち、そこで愛する人を失い、自らもその地の土となり故郷となることを望んでいたであろう老人たちも、その地を泣く泣く去ってゆく。先祖代々続いた地は静かに自然にかえることとなるのである。半明を越えると、思ったより早くその集落は現れた。『針川』・・・そして『尾羽梨』17世紀より前から人が住み続けてきたこの地も昭和の燃料革命の後に、急ぐようにしてその歴史を閉じることになる。その後の主役が、動物や植物になるのなら歴史の終わりではなく、新たな歴史の始まりなのかもしれない。今後また新たに人が住むことがあるとは思えない。もしあるとしたら、それは社会が、国が大きく変貌した時なのだろう。もし、そういう時が訪れるとしたらそれが人間にとって歓迎すべきことなのか、そうでないのかはわからない【参考資料】財)滋賀県文化体育振興事業団 季刊誌『湖国と文化』1991年発行 春号・夏ナカニシヤ出版 『近江の祭りと民族』/宮畑巳年生著七賢出版 『LET’Sドン・キホーテ』/編著者:名古屋テレビ、ドンキホーテ隊とその仲間たち余呉町発行 記念誌『ふるさと丹生小学校のあゆみ』/編集 ふるさと丹生小学校のあゆみ編集委員会ここで紹介させていただいた写真はそれぞれが中谷幸子様、ならびに余呉町教育委員会様のご厚意により掲載させていただいたものです。使用権、所有権、著作権は全てそれぞれの方々にありますので、無断コピーおよび転売、譲渡、貸与、無断転載は絶対にお止めください。どうぞ宜しくお願いいたします。なお、それ以外の出典先の記載のないものはサイト管理人(e-kon)の撮影のものです。←半明・鷲見へ地図へ奥川並へ→■e-konの道をゆく■
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