岩老小学校および岩老中学校は、北海道増毛郡増毛町にあった学校。 岩老小学校は1897(明治30)年1月8...

岩老小中学校(増毛町)

岩老小中学校(増毛町) 概要・歴史

岩老小学校および岩老中学校は、北海道増毛郡増毛町にあった学校。 岩老小学校は1897(明治30)年1月8...
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岩老小中学校(増毛町) ストリートビュー・空中写真

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ここに歩古丹(あゆみこたん)の集落跡を見られる場所があります。 044 崖を覗くと 歩古丹小学校だった建物(昭和46年閉校)です。トタンも剥がれ 小中学校です。昭和62年に廃校になっていますが今は別の用途で使われているのかな?
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増毛町立岩老小中学校明治30年1月8日開校   昭和62年3月31日閉校平成19年5月訪問増毛町岩老の集落増毛から雄冬へ向かう途中にこの場所はある平地の少ない小さな港町らしく山の斜面に建物が広がっている岩老小中学校も この斜面を上がった小さな敷地に建っていた細い道を上ってくると煉瓦造りの校門が見えてくる向かって右の門柱は折れてしまったようだ写真の木造建物が旧校舎とは言っても普通の木造住宅に見える現在は とある企業の研修所として使用されているらしいこの日は旧校舎正面の小さな校庭跡を利用した駐車場に何台もの車が止まっていたどう見ても大きめな古い住宅にしか見えない先ほどの折れた門柱の上の部分が傍らに放置されていた校名も付いたままで「増毛町立岩老小学校」とある上の写真達の反対側から撮影敷地が狭い事と関係者の車がたくさん止まっていたためこの角度からしか撮影できなかったさらに坂の上に行き撮影手前にあるのは旧体育館こちらは少し朽ちている 何かに使用されているのだろうかこの体育館も全体を撮影出来なかった割れたままの窓ガラスが目立つ下から見上げると体育館らしさがわかる本当に狭い敷地に校舎を建てたものだと感心したbackPowered by FC2ホームページ この広告は3ヶ月以上更新がない場合に表示されます。ホームページの更新/WordPressユーザ管理画面経由での更新後、24時間以内に表示されなくなります。
http://ja8rhu.web.fc2.com/school/houmonki.html
 このページは1995年(平成7年)以前に閉校になった学校を訪問し、その時の様子を紹介します。 他のHPでも紹介されていますので、掲載されていない学校を主に紹介いたします。 尚、1995年以降に閉校になった学校は「留萌管内の学校紹介」をご覧下さい。 岩老小中学校 2005年(平成17年)6月訪問小学校:明治30年1月8日開校 昭和62年3月31日閉校中学校:昭和25年5月1日開校 昭和62年3月31日閉校 新聞記事に岩老小中学校の30年ほど前に児童生徒が描いの絵が屋根裏から発見され、その作品展が開催されていることが掲載されました。国道はよく通るのですが、いつでも来られる場所は中々来られないもので今回が初めての訪問となりました。 現在この校舎は苫小牧の会社の所有となっていて、研修等に使われているようです。この会社の社長さんが自力で修繕した部分や、当時の給食室の煉瓦造りのかまどがあったり、水洗トイレになっていたり、社長さんの思いがかいま見ることができました。 この展覧会には当時の教職員の方が訪れていたようで私も知っている方名前もありました。私は絵心はありませんが、どの作品もすばらしくこの学校のレベルの高さが忍ばれました。 体育館は朽ちようとしていますが、校舎の管理が十分されていますので、私小学生時代の面影があり、懐かしさで一杯でした。校舎全景 左は体育館 右が校舎部分校舎の表面体育館会社の研修所「岩老荘」となっている小学生の作品小学1年生の最優秀賞に輝いた作品中学生の作品優秀賞の作品歩古丹小学校 2005年(平成17年)4月訪問明治25年11月1日開校、昭和46年3月31日閉校 私が教員になってまもなく閉校した学校ですが、一度も行ったことが無く増毛町に赴任したことをきっかけに行くことにしました。 国道の橋(岬映橋)から屋根を見ることができます。 町教委の職員の方から降りることが着る場所を教えていただきました。 暖かくなると蛇(まむし)がでるということで、この時期にしました。 トンネル側の駐車場に車を置き、「夕観橋」のたもとから降りることにしました。事前に町教委の方と下見をし...建物が旧大沢小学校である。今までここはよく通っていたが、立ち寄ったのは今回初めてである。 現在この校舎は民間の人が使っているようである。国道から見る校舎。玄関には表札があった。グランド川からの校舎掲揚塔の基礎部分に立てかけられている標識 昭和20年頃40人台の児童数を頂点に以降激減し、豊岬小学校に統合閉校となる。国道沿いのモダンな校舎は、そのままの姿で、今も見ることができる。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)金浦小学校 2005年(平成17年)7月訪問明治40年4月15日開校 昭和53年3月31日閉校 国道232号線沿いの学校で、校舎は閉校になってから、地域の会館として利用されていたが、そのうち取り壊され、現在は教員住宅だけが住む人もなく建っている。草に埋もれている校門教員住宅が残っているだけ。この住宅の右側に校舎があった。30年代の社会情勢の変革は農村漁村にも過疎化現象を生み校下でも離農、漁業団地への移住等児童の減少が進み、遠別小学校に統合閉校した。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)産士小学校 2007年5月24日訪問 昭和60年3月31日閉校 私が天塩中学校に一般教員としていたときに同じ町内でもあったので、お邪魔したこともある懐かしい校舎である。2度目の天塩中学校に赴任したとき(2001年~2003年)には閉校後20数年も経っていたので一部屋根が雪の重みで壊れていた。 今回は退職したことで時間が自由になることから天塩に行ったついでに寄ってみることにした。行って驚いたことは下の写真のように何もないのである。朽ち果てた校舎を見るつらさを思うと何かすっきりしたような心境になった。 左側の校門の裏は天塩町の建設資材置き場になっている。 松と裸地の間に校舎があった。右奥が右の写真の通りである。 閉校を記念したポールが寂しく立っている。ポールには閉校の日付、学校名、PTA、町内会の名前が書いてあった。 昭和57年より入学する児童がなく、昭和62年には自然廃校になることが明確になる。児童のいる中で、開校70周年を祝い、天塩小学校に統合することを決め閉校した。(昭和60年 留萌管内小中学校長会10周年記念誌より)Powered by FC2ホームページ
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 小平からの帰り道、増毛町岩老の集落に立ち寄りました。 斜面に細い小道が通っていて、その両側に家が立ち並んでいます。 旧岩老小中学校は木造の校舎が残っていました。 こじんまりとしていて、かわいらしい建物です。