珊瑠鉱山(さんるこうざん)は北海道上川総合振興局管内の上川郡下川町にあった鉱山。珊瑠金山(さんる...

珊瑠鉱山

珊瑠鉱山 概要・歴史

珊瑠鉱山(さんるこうざん)は北海道上川総合振興局管内の上川郡下川町にあった鉱山。珊瑠金山(さんる...

珊瑠鉱山 画像

サンル鉱業所(1947年10月)
©国土地理院
サンル鉱業所(1977年9月)
©国土地理院

近くのスポット

珊瑠鉱山 ストリートビュー・空中写真

珊瑠鉱山 関連ブログ・参考リンク

http://ameblo.jp/lm056586/entry-10102885103.html
かつては、林業の他、三井珊瑠鉱山、三菱鉱業下川鉱山と二つの鉱山を抱え、下川鉱山にいたっては、戦後、日本三位の銅山となるが、資源の枯渇等で閉山、最盛期は15000を超えた人口も現在は4000程度となっている。 廃坑・・・。 金山・・響きがいいですね・・。 今でも掘ったら出てきませんかね・・・。 わたしも、鉱物、貴石、宝石(特にこちらがお気に入り♪)が好きで、昔ディアボスティニと言う、月2回発行の本に鉱物標本が付いてくる物を、せっせせっせと集めて72回分をコンプリートしましたよ。
http://www.kitakaido.com/daisetsu/shimokawa/shimokawa_13.html
下川町の産業遺跡三井サンル鉱山跡(珊瑠鉱業所)下川町市街から雄武方面に向かうとサンル牧場の標識をすぎてまもなくサンル牧場が左手に見える。サンル12線を左折して次の二股を右折する。この林道を約3kmほど進むとゲートがある。この付近が珊瑠鉱業所跡で大正6年に開鉱、
http://hikyoutaki.blog.fc2.com/blog-entry-662.html
道北の下川町は、かつて2大鉱山で栄えた。市街地南にある三菱下川鉱山は、昭和16年に本格稼業が始まり全国有数の銅の産地として隆盛を極めるも、昭和57年に閉山し現在でも製錬所や鉱口などの遺構が多数残る稀な存在らしい、ただ厳重管理され一般者は立入禁止で遠巻きから遺構
http://tankennori.blog.fc2.com/blog-entry-36.html
サンル鉱山は、資源枯渇や金相場の下落により経営環境が悪化し1986年に休山となった鉱山2010年に探訪した時の坑口こちらは通洞坑トロッコもあったそしてレールの先にはもう一つの坑口が坑道内そしてここからは、2013年に再探訪した時の坑口密閉作業が行われていた。
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top311.html
再生された間歩大正6年に発見された本鉱床は、昭和10年には日産200トンという規模になり昭和18年には金310kgを生産した。金山整備令で休山したがその後、再開し昭和61年に閉山した。その後は山中でひっそりと廃墟への路を歩んでいたが、2007年6月、坑口から200mほど下流で異常出水が確認された。林道近くの斜面に直径1mほどの穴が二カ所開き、鉱水の流水跡が確認された。街から山へ入っても、大規模草地育成牧場が広がる。 のんびり牛たちが放牧されている。 サンル十二線沢川に沿って林道を遡る。路面は締まっている。工事車両が入っているのだろうか。サンル十二線沢川はやがて枝分かれして、鉱山沢川に沿って遡ることとなる。川の水は澄んでおり、異常出水の影響は見えない。抜けるような青空の中、グラベルを走る。道は直線で、どんどん登る。林道脇には「御車沢 8.0」の杭が立っている。鉱山は本道に沿って北上する。川床は少し赤くなり、細くなった。かなり近づいた感がある。林道を歩く。ダブルタイヤの轍が続く。上流では工事をしているに違いない。いよいよ鉱山沢川は細くなり、川床は赤くなる。冬のアタック時には、危険庫のような廃祉が見られた。いよいよ鉱山だ。林道脇に工事現場が現れた。人も多数いて、重機も激しく動いている。現場監督に見学の断りを入れたが、非常に危険なため深部は遠慮した。新しい坑口だ。レイルも有り、発電機とつながっている。坑口へ近づく。明治時代の旧坑道からの異常出水を防ぐための工事だと思われる。奥の精錬施設はさらに重機がうごめいている。冬には荒地と廃墟が広がっていた。現在は大規模な治山工事が行われている。奥に登ると、坑口が見えた。木で塞がれた旧い坑口だ。斜面の上には選鉱所の廃墟がたたずむ。この時期は登れなかった。エゾジカに見送られながら、工事現場を後にして下山した。立派なダムの付け替え道は完成している。下に旧道があるが、やがて水没するのだろう。ダムが完成したら、また来てみたい。全く景色は変わっているのかもしれない。珊瑠御車鉱山へトップページへトップページへ
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/01-1.Dohoku/Shimokawa_Sanru.html
      ◆珊瑠(さんる)所在:下川町珊瑠地形図:下川/下川 サンル/サンル異表記:サンル形態:川沿いに家屋が集まる離村の背景:最終はダム建設?標高:約150m~訪問:2012年6月  町の北部、サンル川沿いにある。 以下は「角川」の記述より。地内の開拓は明治40年代大正6年金・銀鉱山を発見。同15年から三井鉱山により大規模に採鉱。昭和19年に閉山するまで最大300戸超の鉱山街を形成。同25年合同資源産業磯部珊瑠鉱業所に鉱業権が譲渡され、同51年一時採鉱休止、同54年再開昭和11年森林鉄道珊瑠線が開通昭和10年代には22の炭窯があった昭和22年珊瑠小学校に下川中学校珊瑠分校併置昭和35年道道開通昭和43年63戸271人、同52年17戸54人昭和47年小学校・中学校閉校昭和53~57年国営草地開発事業実施現在(※刊行当時)は畑作と酪農の農業地域。木材原木を産するほかに、十二線川上流では珊瑠鉱業所が金・銀を採鉱 現地はサンルダム計画により水没する予定。  ≪第一区≫※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「サンル」(昭和47.2)を使用したものである  字珊瑠地内の最下流部。訪問時は五線橋付近まで付替道路が完成。建物はない。 写真1 集落遠景写真2 五線橋写真3 屋敷跡写真4 屋敷跡 ≪第二区≫※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「サンル」(昭和47.2)を使用したものである  サンル十二線川との合流部付近。珊瑠の中心部のようで、学校があったのは当地。 写真5 広い平坦地写真6 学校跡?写真7 屋敷跡写真8 サイロ写真9 サンル川。奥は付替道路の橋梁 ≪その他≫ ※ この地図は、国土地理院発行の1/50,000地形図「サンル」(昭和47.2)を使用したものである  地図画像1枚目は十二線川および鉱山沢川沿い、2枚目はサンル川上流部および支流の幌内越沢(ほろないこしざわ)川沿い。前者はサンル牧場の一部で、施設や牧草地が広がる。また鉱山沢沿いには坑口が見られる。後者は林業関係(先述の木材産出)に関係するものか。 写真10 「サンル12線」の表示写真11 牧場施設(「十二線」付近)写真12 牧場にて(同)写真13 柵(「御車」付近)写真14 坑口(「サンル鉱業所」付近)写真15 広い平坦地(「奥サンル」付近)
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-93.html
下川町珊瑠(平成26年3月12日探訪・学校跡地探訪未遂)珊瑠は明治39年 岐阜県出身である林 杉太郎、前田助兵衛、山本房吉、三島孫三郎らが入地したことに始まった。子供たちは当時、上名寄簡易教育所(後の下川町立上名寄小学校)に通学していたが遠距離であった為、組長 前田助兵衛 伍長 林 杉太郎、市村大助、山本房吉らが主唱した。明治41年2月17日 珊瑠七線 上ヶ島弥於吉の茅屋を借りて、授業が始まった。同年6月 珊瑠簡易教育所と改称。明治43年10月 珊瑠八線御料地四十九番地に校舎を移転する。大正6年4月 名寄町立珊瑠尋常小学校と改称。大正11年8月23日 台風により校舎が倒壊。同年10月 九線高台下に移転。大正13年1月 分村により下川村立珊瑠尋常小学校と改称。昭和6年8月 九線高台より、現在地である十二線に移転する。昭和16年4月 珊瑠国民学校と改称。昭和22年4月 珊瑠小学校と改称。併せて下川中学校珊瑠分教室を併置。昭和27年4月 中学校が独立し、小中併置校となった。珊瑠は、鉱山と農業で栄えた集落であった。大正6年 寺島庄太郎が転石を発見するも、その後別人により露頭の発見もあった。鉱区の出願や試掘もされたが、資本金が少なかったことから大正15年 斎藤ヤエから三井鉱山へ渡った。この時、買収と同時に直属と成り「珊瑠出張所」と命名された。昭和8年 諸般の設備が整い、三井珊瑠鉱業所と改称。鉱業所の子弟は珊瑠小学校に通学していたが、学校から4キロ離れていることや、冬期間の積雪量により通学が困難であったことから同年12月 「珊瑠第二尋常小学校」が設立された。昭和15年頃 鉱山周辺は300戸の職員住宅や鉱員住宅が建ち並んでいた。一方、既存の農村のほうも珊瑠木工場や澱粉工場、国有林事業の隆盛もあり120戸 700名を数えていた。この頃、珊瑠尋常小学校に通学していたある方は、こう回想する。「…学校の傍には杉野さんと云う澱粉工場があった。あの頃は珊瑠第一も、学校周辺の珊瑠第二もたくさんの人が暮らしていた…。」昭和16年の「国民学校」改正に伴い、珊瑠第二国民学校と改まったが昭和17年4月時点で、尋常科4学級 225名 高等科1学級 42名の子弟が通学していた。しかし、鉱山は大東亜戦争の最中である昭和18年7月 戦争遂行のため帝国鉱発株式会社の手に渡り、不急産業として閉山した。閉山と同時に、珊瑠第二国民学校も閉校となった。戦後、鉱山は昭和25年 磯部鉱業株式会社の手に渡り再開した。昭和40年 会社の合併により合同資源産業株式会社磯部珊瑠鉱業所と変更する。昭和43年11月 珊瑠小中学校開校60周年記念式が挙行された。この年の珊瑠の人口は 珊瑠第一 21世帯 107人 珊瑠第二 43世帯 165人であった。だが、鉱山の縮小や離農による過疎化に見舞われた。昭和47年3月末をもって下川小学校・下川中学校と統合され、閉校になった。
珊瑠鉱山 関連ワード
  • 呼ばれ
  • 昭和19