船木鉄道は1916(大正5)年9月16日に宇部駅 - 船木町駅間で軌間762mmの軽便鉄道として開業。 1923(大....

船木鉄道(大棚隧道、船木鉄道の峠のトンネル)

船木鉄道(大棚隧道、船木鉄道の峠のトンネル) 概要・歴史

船木鉄道は1916(大正5)年9月16日に宇部駅 - 船木町駅間で軌間762mmの軽便鉄道として開業。 1923(大....

船木鉄道(大棚隧道、船木鉄道の峠のトンネル) 画像

大棚隧道(2021年6月)
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船木鉄道(大棚隧道、船木鉄道の峠のトンネル) ストリートビュー・空中写真

船木鉄道(大棚隧道、船木鉄道の峠のトンネル) 関連ブログ・参考リンク

http://blogs.yahoo.co.jp/kometrennsport/7181728.html
かつて、宇部-船木-吉部間で運行されていた船木鉄道。その船木鉄道の峠駅近郊にあるトンネルです。南側(船木側)はこのように現在でも開口していますが、北側(吉部側)は埋没しています。このトンネルの上にバスの停留所があるのですが、峠駅もその辺りにあったのでしょうね。
http://blogs.yahoo.co.jp/kometrennsport/22222831.html
たまたま近くを通りかかったので、船木鉄道の『峠のトンネル』を見てみる事にしました。するとなんと!坑口周辺の草がきれいに刈られて内部が見えるようになってるじゃありませんか!これは覗かない訳にはいきません。ほらね!坑口の直近は傾斜が急なので、農道?を下って水路沿い
http://rail.crap.jp/r/21454.html
1916年(大正5年)9月16日:宇部駅-船木町駅間が開業(完成は同年5月2日)。軌間762mm。1923年(大正12年)10月12日:宇部駅-船木町駅間の改軌工事が完成し、船木町駅-万倉駅間4.7kmが軌間1067mmで開業。営業距離が宇部駅-万倉駅間9.6
http://blowinthewind.net/haikyo/ootana/ootana.htm
     廃墟の風景大棚隧道2015/5/25PENTAX K-7 国道2号線から県道30号線を北へ約10km、船鉄(せんてつ)バスの吉部小学校前バス停付近に、隧道への案内板がある。小学校の校舎と運動場の間の道を進み、突き当たりを左折すると訪問者のための駐車場がある。10台以上駐車できるくらいの広さがある。駐車場には説明板があり、隧道まで約400m、よく整備された道を徒歩約10分で到達できる。インターネットで訪問者の記録を拝見すると、場所がわかりにくく、隧道付近は倒れた竹でおおわれ、到達するのにかなり苦労されている。その後、遊歩道が整備され桜が植えられ、隧道付近の竹が伐採され、そして説明板が設置された。したがって、迷うことなく、安全快適に隧道を訪問できるようになっている。地元の方々のご尽力に感謝したいと思う。  隧道へ行く前に旧船木駅舎へ立ち寄った。現在は船鉄バス船木営業所でバスセンターとなっている。船鉄バスは地元の貴重な足。吉部小学校前バス停付近にある案内板。駐車場にある説明板→拡大図東屋の前の道を直進する。桜の頃はきれいだろう。右手に説明板があり、その先に隧道の入口が見える。隧道北口。大正15年(1926)頃/石・煉瓦造り/延長約20m/幅は不明隧道の中から南口を見る。隧道南口。隧道南口。|廃墟の風景|
http://www.tunnelweb.jp/kikaku/otana/otana.htm
大棚隧道おおたな旧船木鉄道線山口県宇部市延長約20.0m 幅員- m 竣工1926年ごろ 旧山陽道沿いの宿場町であった旧楠町船木地区は,山陽鉄道が下関まで延長した際にルートから外れ,宇部西郊に宇部駅が建設されることとなった。旧吉部駅跡 JAの敷地になっている。旧吉部駅から宇部方面路床は残っている。そのため,拠点性を失った船木地区は,地域の有力者の出資で宇部駅との間に軽便鉄道(軌間762mm)を建設することとし,1916年に宇部‐船木町,1923年に船木町‐万倉(このときに1067mmに改軌),1926年には万倉‐吉部間が開通した。その後は美東町の大田まで延長する予計画であったが,実現しなかった。大田には1922年の鉄道敷設法改正により小郡と萩を結ぶ国鉄線の建設が計画されていたため延長を画策したのであろう。すべての計画が実現していれば,大田は於福(美祢市)への支線の分岐点となる予定だったから4方向へ鉄道が延びるジャンクションとなっていた。終点の吉部駅跡地である農協から築堤を見ながら,県道を船木方面へしばらく走ったのちに,山側に向かい,迂回して小学校の裏手に出る。(小学校の中も通り抜けは可能であるが,物騒な昨今,平日なら間違いなく通報→逮捕であろう。)途中神社の参道には石積みの橋台も残っている。しかし,昭和恐慌で経営が悪化し,戦時下で資源確保が困難となるなか,不要不急路線として万倉-吉部間が休止されることとなった。(鉄材供出もだが,燃料節約の問題もあったのだろう)戦後はバスや自動車の発達により1961年に宇部-万倉間も全面廃止されている。そして,その休止された区間には路線唯一のトンネル遺構が残っている。ここはトンネルサイトなので,ここではその大棚隧道の前後のみを紹介したい。側壁は切石積み,アーチ部は長手の煉瓦巻きとなっていて,少し湿気が多いためか,特に白化が進行している部分がある。さすが,鉄道隧道であり天井は高い。長さは約20mほどだろう。幅員も結構ある。その裏手には一段高くなった廃線跡が一部農道として残っており,その農道を大棚方面へまっすぐに進むと,道は途切れ竹やぶの奥に,石積み+煉瓦アーチの大棚隧道があらわれる。大棚側は竹が倒れてきたり(昨年の大雪か台風の影響だろう。)していて,かなり荒れている。道路旧道ではないので,目的の隧道を確認したということで,満足して先へは踏み込まなかった。当分このままの状態で推移するのだろうが,きちんと案内看板と入り口の草刈ぐらいあっても。。。危険だということなのかなあ?位置
https://kawasemiblue.blog.ss-blog.jp/2011-07-10
かつて日本中を鉄道が網羅していた時代に山口県の宇部市から吉部まで鉄道が通っていました廃線になった路線ですがそれも約50年近くも前から埋もれ続けている鉄道跡へ廃墟ハンターは来ています。廃線を全線辿りたいけど地元じゃない僕には無理そうなので一番鉄道の遺構として魅力のある物件が嘗ての終着駅の吉部に程近い所に残ってるようなのでそれにターゲットを絞ってやってきたのだ。
https://ubecha.exblog.jp/24595180/
旧吉部小学校の駐車場の裏手に小高い鉄道敷跡が続いていて、そこから南に向かって歩いていきますトンネルの周りは竹藪です看板がちゃんと立ってます出発進行!登り勾配がきつくミニSLがんばってます帰りはバックで・・・以前の大棚トンネル周辺はちょっと荒れていましたが、このフェスタのために、トンネル周辺は竹などを切って整備されたようです見たところトンネルはいい状態で保存されているように思います鉄道敷跡の来た道を帰っていくと、コスモスが風に揺れてました・・・「うべの里アートフェスタ」は、吉部、万倉、船木の周辺で11月29日まで開催されています
http://pyoco3.c.ooco.jp/chugoku/funaki/funaki.html
船木鉄道を訪ねて廃止鉄道ノート中国 減速進行 地区:山口県宇部市  区間:宇部~吉部/17.7km  軌間:762→1067mm/全線単線  動力:蒸気・内燃山陽道の宿場町として繁栄した船木。山陽本線が町をはずれて敷設されたため、地域開発と共に町勢の復活を目指し、地元資本で762ミリ軌間の軽便鉄道が開業した。のちに山陽本線と同じレール幅に改軌し沿線の鉱産物輸送を強化したが、昭和中期に鉱山が相次いで閉鎖されるとその使命を終えた。鉄道廃止後も社名を変更することなく、バス運行を主業務として現在に至っている。なお廃線跡は大規模私道「宇部興産専用道路」に絡んで延びる。路線図略史1943年2013年大正5(1916) -9/16 船木軽便鉄道 開業7(1918) - 船木鉄道に改称12(1923) -10/12   〃改軌昭和19(1944) -3/1   〃  万倉~吉部間休止36(1961) -11/19   〃廃止廃線跡現況山陽本線宇部駅には大きな構内が広がり(写真A)、この北側が船木鉄道の出発点と思われる。現在は留置線が敷かれているものの使用されずに錆付いている。当時の写真を見ると、跨線橋でJR駅とつながっていたようだ。なお開業当初の駅名は西宇部と称されていた。構内の西端には今も小川に橋台が残る(写真B)。A01年1月西に向かう路線はしばらく山陽本線と並走するが、JR側が左カーブを描き始める地点で右に分かれ、県道29号線に合流する。当時は道路の北脇を走っていたが、拡幅工事により痕跡は消え、正確なルートの特定は難しい。県道が右カーブで向きを変えると、鉄道も同時に北上を始める。県道の旧道よりも更に東側を通り、斜面に造成された大和団地と呼ばれる住宅地につながっていく。当然のごとく鉄道の痕跡はきれいにかき消されている。B01年1月団地を抜けると地元の人が興産道路と呼ぶ宇部興産専用道路にぶつかり、廃線跡は分断される。交差部の北側はごく一部が宅地に分譲されたものの、大半はその路盤を残している(写真C)。ただ自動車進入可能な箇所もあれば、人が...中には船木鉄道の簡単な沿革などを記した説明板も掲示されている。また南側を走る県道には入口を示す案内看板が設置され、駐車場も用意されている。観光資源として活用されれば、保存に向けて有利に働くはことは間違いなく、今後も継続して続くことを願うばかり。U01年1月桜並木が終わると、その先に橋台跡(写真V)を見つけることができる。下部は石積だが上部は風化のためか劣化が激しく、大きな石をコンクリートで固めた断面を曝している。石積みならぬ石固めとでも呼びたい不思議な構造だ。橋梁の北から再び続く築堤は、一部が削られ農地として利用されるものの、吉部八幡宮の参道交差部には架道橋の橋台(写真W)、さらに珍しいアーチ橋(写真X)なども残されている。V16年7月W01年1月X01年1月築堤上を進みほんの少し左に向きを変えると、終点吉部[きべ](写真Y)に到着する。現在でも集落北のやや不便な場所だが、開業当時は完全な町はずれに位置していた。玄関口としてはふさわしくないが、それなりの理由はあったのだろう。もしかすると地形が原因したのかもしれない。跡地は農協の倉庫敷地として取込まれ、鉱産物だけではなく、農産物の輸送にも利用されていたことを示している。Y01年1月最新の情報 2012年5月16日 小野田市在住の名原さんより最新の情報をメールにてお寄せ頂きましたので、許可を得て全文を掲載します。下のボタンをクリックしてご覧下さい。 2012年6月2日 小野田市在住の名原さんより再び最新の情報と写真をお寄せ頂き、写真は本文内に利用させて頂きました。下のボタンをクリックしてご覧下さい。参考資料 鉄道ピクトリアル通巻493号/中国地方の今はなき私鉄を偲ぶ/藤井信夫 著 厚南第6号/船木鉄道の廃軌道を尋ねて/厚南郷土史研究会参考地形図1/50000  宇部[S24応修]  厚狭[*S32要修]  小郡[S15部修]1/25000  宇部[S34資修]  厚狭[S11二修]  阿知須[S2測図] 湯ノ口[該当無]ご記帳処お断り・連絡先     ページtop最終更新日2020-10/7 転載禁止 Copyright (C) 2001 pyoco3 All Rights Reserved.
http://www1.cts.ne.jp/~kimata/funaki.htm
船木鉄道 山陽道の宿場町、船木への足と、沿線の石炭輸送を目的として1916年に開業、その後吉部まで延伸した。しかし万倉以北は戦時中に不要不急路線として休止、残る区間も石炭輸送の減少などにより比較的早い時期に廃止されている。バス会社が今でも「せんてつ」を名乗っているのが救いである。  1916.9.16 船木軽便鉄道宇部~船木町間開業  1919.1.25 船木鉄道と改称  1923.10.12 1067mmに改軌、船木町~万倉間開業  1926.7.1  万倉~今富間延伸  1926.11.1 今富~吉部間延伸により全通  1944.3.1  万倉~吉部間休止(61.11.18廃止)  1961.10.14 全線営業休止(61.11.19廃止)   1941194919551960 輸送人員(千人/日)1.42.01.10.6 輸送密度(千人/日)0.51.30.60.3 貨物輸送量(万t/年)13.713.54.11.0営業係数969097117廃線跡 宇部-吉部9.7km 戦後も営業していた万倉までの区間は、鉄道の痕跡があまり見つけられない。有帆駅付近で辛うじて路盤を見つけた程度である。船木町はバスターミナルで、待合室は鉄道時代の駅舎のようである。 2008.12 宇部-有帆間①2008.12 船木町駅跡② 万倉から北は1944年に休止された区間であるが、立派な築堤を所々で見かけた。終点の吉部駅の位置は見つけられなかった。 2008.12 万倉-矢橋間③2008.12 大棚-吉部間④
http://tetsubanonakigara.web.fc2.com/funakitetsudo.html
船木鉄道跡 船木鉄道は、現在、宇部市内を中心にバス路線を展開するバス事業者として健在であるが、その名の通り、かつては鉄道路線を有していた。 かつての宿場町船木と山陽鉄道(現在の山陽本線)宇部駅を結ぶべく計画され、皇紀2574年(大正3年)着工開始、皇紀2576年(大正5年)9月16日に宇部~船木町4.9kmが開業。当初は、船木軽便鉄道という社名で、レール幅も762mmであった。皇紀2579年(大正8年)より船木鉄道へ社名変更、皇紀2582年(大正11年)より1067mm改軌工事と延伸工事が開始され、翌年改軌および船木町~万倉延伸開業を達成した。そして、皇紀2586年(大正15年)7月に万倉~今富、11月に今富~吉部が開業した(これにより最終的な全線開業だが、さらに大田へ延伸する計画もあった)。 以後、沿線住民や雑貨の輸送、または付近に点在する石炭鉱の石炭輸送に貢献したが、大東亜戦争敗色濃厚となりし皇紀2604年(昭和19年)3月に万倉~吉部が休止されてレール供出が行われ、以後、復活する事はなかった。そして、残った区間も石炭産業の衰退と自動車時代の到来により廃止のやむなきに至ったのである。時此れ皇紀2621年(昭和36年)10月19日。その後、冒頭の通り、運営会社自体はバス事業として歩んでいる。 調査は皇紀2667年(平成19年)2月7日、扶桑座。この日は、萩森興産専用線跡探査と合わせて実施しており、通行の都合上、宇部駅付近の遺構は見落としている。まず最初に見るのは、宇部~有帆に残存している有帆川を渡った石積橋台跡。有帆川橋台のうち、吉部側を望む。同橋台のうち、宇部側を望む。吉部側橋台に続く築堤跡である。有帆から船木町にかけては概ね道路に転用されている。鉄道現役時代は存在していなかった山陽新幹線をくぐる付近である。船木町駅は、駅舎がなお現存している。この時点(皇紀2667年)で廃止より46年が経過していた。かつては鉄道車両がたむろしていたであろう構内跡は、今はバス車両がたくさん置かれているのであった。もう一回駅舎を見てから先に進む。鉄道廃止時まで営業を行っていた万倉までの跡は大半が道路に転用されていると言った感じでトレースは容易だが、廃線跡巡りの楽しさは薄れつつあるといったところ。むしろ色濃く残る廃線跡は、大東亜戦争末期にレール供出休止となった万倉から先の区間であろう。早速雰囲気が良い築堤跡が出てきた。先行休止区間の有名な遺構の一つ、コンクリート製橋台と細長い橋脚が残存する区間。築堤ともども状態よく残っているが、築堤上には新しい民家が建ち始める等の変化もある。橋脚跡をアップで臨む。何故か横着して往年のアクティの中からしか撮っていなかった。農耕車両が入れるように破壊された箇所もあるが、築堤が連なっているこの地区。幹線系から中古譲渡された明治期の小型輸入蒸気が、木造二軸客車を牽いていた姿を想像するのも、鉄道廃線跡巡りを行う者の思考よ。やがて線路跡は並行する県道30号から離れた雑木林の中を走るようになる。その後の調査では、未だ駅ホーム等が残っている場所もあるとの事であったが、突入を断念し、先を進んだ。やがて、峠駅があった辺りに到着。ここに船木鉄道バスの峠停留所がある。その近くに船木鉄道の隧道跡が残存している。この隧道は発見できたが、大棚の隧道は発見ならずであった。ちなみに、峠から大棚にかけての県道30号線沿いに船木鉄道のバス廃車体があった。吉部の街に入ってくると明瞭に残っている廃線跡が出現。コンクリート製の小型アーチが残っていた。吉部八幡宮・吉部護国神社への参道を横切っていた個所にあった橋台はなかなか立派であった。 宇部駅付近の残存橋台や今富付近の藪、そして、大棚の隧道が見れなかったのが残念無念であったが、いつかまた、探索を行うと心に誓って現場を後にしたのであった。鉄道出棺(廃線跡)に戻るPowered by FC2ホームページPowered byFC2携帯変換閉じる この広告は3ヶ月以上更新がない場合に表示されます。ホームページの更新後、24時間以内に表示されなくなります。 この広告は3ヶ月以上更新がない場合に表示されます。ホームページの更新後、24時間以内に表示されなくなります。
https://ameblo.jp/redcrossbike/entry-12462414517.html
船木鉄道(ふなきてつどう)、略して船鉄(せんてつ)といいます。 そもそも「船木」というのは何なのか? 山口県にいる人でもそれが地名であり、どこにあるかピンとくる人は少ないでしょう。以前は楠町(くすのきちょう)と言っていたところで、現在は宇部市の一部となっています。船木は旧山陽道の宿場、船木宿のあったところで交通の要衝として栄えていたところです。長州藩では船木宰判(ふなきさいばん)が設置され代官の管轄エリアに指定されていました。大正時代までは旧厚狭郡(あさぐん)の中心地だったとか。そんな船木も山陽本線が南側に敷設され不便に。そのため、宇部駅から鉄道が敷かれることになり1916年に船木軽便鉄道として開業したのです。つまり