月形鉱業月形炭鉱は北海道樺戸郡月形町にあった炭鉱。 1947(昭和22)年に石狩炭鉱が本格的な採炭活動...

月形炭鉱

月形炭鉱 概要・歴史

月形鉱業月形炭鉱は北海道樺戸郡月形町にあった炭鉱。 1947(昭和22)年に石狩炭鉱が本格的な採炭活動...

月形炭鉱 画像

月形炭鉱(1963年5月)
©国土地理院

近くのスポット

月形炭鉱 ストリートビュー・空中写真

月形炭鉱 関連ブログ・参考リンク

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top361.html
川渡りを繰り返す昭和22年頃に本格的に採炭がなされた本炭鉱は、最盛期には鉱員200名以上の集落も形成されていた。6kmの距離にある「豊ヶ岡駅」までは索道があり、当時は積み出し駅として栄えた。昭和38年4月に閉山してから約50年。相当な山奥へ向かう。札幌近郊とは
http://www7b.biglobe.ne.jp/~kitanohosomiti/top360.html
月形炭鉱で廃墟を登る北海道月形町札幌の北70分に位置する月形町は、明治14年に設置された樺戸集治監とともに誕生し、石狩川に沿った静かな農村として発展してきた。現在では「道民の森」という自然リクリエーション施設もあり、自然が豊かで公園も多い。山中にはかつて、須部
http://members3.jcom.home.ne.jp/bighorn3/tankou/tukigata/tukigata1.html
月形鉱業月形炭鉱2009年5月探訪途中にあった浴場跡か?住宅跡、煙突が立っている坑口密閉されている下から見るとこんな感じホッパー中を覗いてみる台の下には、材木が押し込まれ広角レンズ、やっぱりいいな真下から上がっていってみると、途中にあった?わからない?上がりき
http://burasorabeka-n.blog.so-net.ne.jp/2009-08-23
旧タイトル「月形炭坑めざせ炭坑跡編」月形炭坑は月形の須部都川上流にあった炭坑で、近くに200人ほどが住む集落と学校があったそうです空知支庁のサイトにものっています数年前に一度訪れているのですが、そのときは川を渡れずに近づけなかったので長靴担いでの再訪となりまし
http://haikyo.dreamlog.jp/archives/1781083.html
お盆休みとはいえ実家に帰らなければただの連休。いきなり連休なんかもらえてもやたら暇なだけ。ということで、かねてより懸案だった月形炭鉱へ行ってみることにした。月形町を流れる須部都川支流のポン須部都川源流近くに位置するためコペンでは難航が予想された。ところが、R2
http://minkara.carview.co.jp/en/userid/116151/spot/652621/
空知地方の月形町にかつてあった炭鉱の跡地ですが、炭鉱の中でもかなりマイナーなので、おそらく閉山後はほとんど未踏と思われます。森の奥深くに隠れているのでとにかく発見が困難です。私もほとんど偶然見つけたようなものですから。。。昭和38年閉山で、写真の坑口や選炭関連
http://knaruse.blog94.fc2.com/blog-entry-235.html
月形町月形炭鉱(令和2年10月探訪) 月形町月形炭鉱は炭鉱集落である。 月形炭鉱の発足は明治時代であるが、会社組織として本格的に稼働し始めたのは戦後に入ってからである。 昭和22年斉藤太助が弓良源作と共同で石狩炭鉱株式会社の名で企業活動をはじめた。翌昭和23年東京の寿炭鉱が買収し、月産20~30トンで採炭を始めた。 昭和26年東華炭鉱が経営を譲り受けたが昭和28年日満鉱業の所有となり、採炭規模も日産100トンに上昇した。 昭和29年月形鉱業株式会社が粗鉱権を得て、実際の採掘作業は下請会社の尾張組が行った。また、昭和27年より進めてきた豊ヶ岡駅-落葉の沢間、落葉の沢-坑口への索道敷設工事が完了し、運転を開始した。 昭和33年炭質が向上せず経営不振に陥っていたが羽幌鉱業が買収した。 昭和36年尾張組の手で融資を申請し、100万円の資金で労働者の増員、坑内機械の入替で再建を図るが経営は下降線をたどっていく。 昭和38年4月30日 月形炭鉱閉山。小学校昭和28年 月形小学校紅葉谷分校として開校昭和29年 紅葉谷小学校と改称昭和38年 閉校
http://www.aikis.or.jp/~kage-kan/01-3.Doo/Tsukigata_Tsukigata.html
月形(つきがた)炭礦※ この地図は、地理調査所発行の1/50,000地形図「月形」(昭和31.12)を使用したものである所在:月形町(字なし)地形図:月形/月形形態:川沿いに家屋や施設が集まる離村の背景:産業の衰退標高:約150m~?訪問:2012年6月  月形炭礦に伴う炭礦集落。須部都(すべつ)川に沿う。地図サイトを見る限り、いずれの行政字にも属していない。 須部都川右岸・左岸各方面より訪問をしようとしたが、いずれも林道の通行規制により訪問できず。 以下は町史より炭礦の概要 明治末から小規模な採掘が行われていたが、本格的な採炭は昭和22年石狩炭鉱株式会社の設立以降。以降寿炭鉱(昭和23)・東華炭鉱(同26)・日満鉱業(同28)・月形鉱業(同29)・羽幌鉱業(同33)の経営を経て、同38年4月閉山。最盛期は職員40人、鉱員200人が従事し、職員住宅20戸以上、鉱員住宅100戸以上が建ち並んだという。 索道の敷設の記述の中で「…小学校のあった落葉の沢まで、そこから曲折させて更に鉱口へと…」という一節があり、地図画像の下部が落葉の沢(単に「落葉」とも)と呼ばれ、ここに小学校があったことが分かる。
https://kamonji224.hatenablog.com/entry/2019/06/09/212256
3.月形炭鉱月形炭鉱は1907年頃に発見される。その当時は採掘に至らず。1948年には寿炭鉱が月産20~30t産出するようになる。1953年に日満鉱業が所有。日産100tまで拡大される。その頃には集落もでき始め紅葉谷分校も設置された。 1954年に月形鉱業が権利取得。採掘は尾張組となる。紅葉谷分校が小学校に転換。1955年に中学校が併設される。最盛期には住宅が100戸以上あった。月形市街地から山道を20kmの距離ということで、陸の孤島のような環境だったようだが、月形町史には当時の生活を振り返る談話も載っていた。
https://tafur.exblog.jp/30840520/
駅のすぐ近くにある溜池から見える分監山と三角山。ちょうど分監山の向こう側やや左手に月形炭鉱があってここまで索道が敷設されていた。
https://togetter.com/li/1495972
道新やニュースでも札沼線には石炭列車が走っていたと一言で述べているが、実は国鉄と大きな関わり合いを持ち。なおかつ札沼線の末端部の廃止は一介の零細企業が躍進しようと頑張った矢先に道を断たれた歴史でもあった。現在、月形鉱業所に関する資料は殆ど残っていないが何かの機会に纏めたいと思う